創造性や勇気ある秀才が激減

なぜ、日本人や日本社会は「人材を評価する」ということができないのだろうか。様々な理由が考えられるが、経験上、最も大きな理由として思うことは、日本人の「お上頼み意識」の強さである。誤解なきように言うが、これは日本人が役所や公務員を尊敬・信頼しているということではない。日本人は役所や公務員を批判するにもかかわらず、自分達で自主的に何かを作り上げることはしないということである。それどころか、何か問題があると即座に「役所が〜すべきだ」と役所を批判し依存する。

社会のルール、ルールを破った時の罰など、経済社会を運営する時の基準をすべて役所に作ってもらおうとする。そんなお上依存意識が評価下手につながっている。みんなが議論しながら評価基準・項目を作れないのである。そのため、誰もが納得できる存在として「お上」を祭り上げて、決めてもらおうとする。人材をきちんと評価するためには、評価基準を命がけで作る必要がある。「どういう人材が優秀なのか」「どういう人材が日本で育ってほしいのか」ということを、侃々房々と意見を戦わせながら作り上げない限り、人材を評価することなどできない。そんな当たり前のことを日本人は避けている。

ただし、今後、少子高齢化でますます若者が少なくなっていくということを考えた時、人材評価を曖昧にしておくことのマイナスはあまりにも大きい。具体的に言うと、日本人の人材評価があまりにも曖昧で大衆的なことから、優秀な知的エリートがますます衰退するということである。今の日本では、知的エリートが重視・尊敬されていない。今の日本で人気があったり敬意が払われるのは、芸能人やプロスポーツ選手であり、一流大学を卒業して一流企業に就職したり、知的職業に就く人はそうではない。

それは報酬面から明らかである。国民の多くは、東大法学部を卒業した官僚が1000万円の給料をもらうことに目くじらを立てる一方で、プロ野球選手や芸能人の膨大な収入には何の疑問も持たない。こんな状況を反映しているのだろうか、小さいうちから本格的に芸能人やプロスポーツ選手を目指す親・子供も増えている。その一方で、シンガポールのように知的人材を遮二無二に集めている国もある。いずれにしても、人材評価を避ける日本では、知的エリートを中心に人材が劣化していくことは明らかである。具体的には、外資・金融・法曹などのプロフェッショナルで金を稼ぎまくる一部の知的エリートを除いて、知的エリートは次の三つの形態で力を落としていくだろう。

第一に、一流企業に入る知的エリートを中心としたもので、長時間残業で疲れ果てて劣化していくというパターン。第二に、(昨今はエリート官僚を含めて)公務員志望の学生を中心に、人材として評価されないため、自分の存在の重要性にさえ気付かないまま、非常に保守的な行動をとる知的エリート。第三に、人材を評価しない日本という国を見捨てるというパターンである。第一のパターンについては説明の必要性もないだろう。日本の一流企業のサラリーマンを見ていれば、「いかに学歴の果実が少ないか」が如実にわかる。「一流大学を卒業したことの意味は何なのか?」というくらいに、長時間残業に追われている。その一方で、そこそこの給料しかもらえず、リストラの危険にさらされている。