万葉に関する造詣

矢内原先生はこの翻訳を引受けて下さって半年足らずのうちに新書二巻分にあたるものを訳了されました。この努力がなかったら、岩波新書の先頭を『奉天三十年』で記念することもできなかったわけですが、それと同じくらい私たちが感謝したのは、斎藤茂吉先生が今日でも名著として広く読まれている『万葉秀歌』上・下二巻を、一夏で書きあげて渡されたことでした。先生はその夏箱根の強羅にこもってこの仕事に専念され、ほとんど一気に、渋滞なく書きあげてしまわれたのです。恐らく読む人が読んだなら、この成立の事情とあの簡潔で狂いのない評釈との間に、或る関連をみつけるかも知れないと思います。

万葉に関する先生の多年の菰蓄と造詣と、歌人として鍛えあげたすばらしい鑑識力とが、この著作の底に溢れるような水量でたたえられていて、それが、時間も短く枚数も少いために、かえって凝集してこの著作にこんこんと湧き出しているような気がします。『万葉秀歌』と共に最初に出た二十巻のうちで、いまでは姿を消していますが、特に挙げておかねばならないのは、津田左右吉先生の『支那思想と日本』ではないかと思います。

というのは、この本を岩波新書に書き下すまでは、津田先生の著作活動は全く学界の中に限られ、先生の研究も思想も社会的な論議の外にあったのですが、いわゆる東洋文化などというものが学問的に見れば存在しないというこの本の主張は、岩波新書に出たせいもあって、当時、日本の大陸侵出を東洋文化の再建とか東亜共栄圏とかという美名で飾っていた右翼評論家たちを刺戟し、やがて先生が東大に招かれて講義をされる前後から、彼らは、先生の過去の国史研究にまでさかのぼって先生の思想を論難攻撃するようになり、終に彼らの告発によって先生は皇室の尊厳を冒涜する罪に問われるに至った、といういきさつがあるからです。

長江中流の武漢での開発

中国軍の近代化は至上命令となった。軍事工業の近代化は必至となり、したがって民間工業の近代化は避けられなかった。これが中国の政治・経済・技術の現代化の起点であった。一九五三年に朝鮮戦争の休戦協定が実現した。しかし中国とアメリカとの戦争状態は正式には終わらなかった。

アメリカにとって、日本列島からフィリピンに至る弧状列島と朝鮮半島の南半は、対東アジア戦略上譲れぬ軍事的最前線となった。第七艦隊が台湾海峡にあって、中国大陸と台湾とを分断していた状態は変わらなかった。この中途半端な軍事情勢は、中国と日本の経済と技術に大きなインパクトを与えた。

朝鮮戦争がなかったら、中国は日本や欧米と早くから貿易関係を結び、技術や管理手法もまた導入したであろうが、それが向ソー辺倒とならざるを得なくなった。また一九五三年から、中国はソビエトと東欧との大規模な経済援助を受けて、第一次五ヶ年計画を開始したのである。

しかし、アメリカ軍が鴨緑江の対岸に迫った事実と、第七艦隊はなお中国沿岸に待機している状況とを考慮すると、重工業施設は沿岸から遠く離れた地域に立地することが安全であった。黒竜江省内蒙古の省境近くのフラルチと長江中流武漢に重機械工場を、映西省の西安に電力機械工場を、吉林省長春に自動車工場を建設するという具合であった。中国が重工業の沿岸立地を拡大し始めるのは、それから二五年後のことである。

日米防衛協力のためのガイドラインの国内関連法

野中は、はるか以前、小渕内閣発足直後から、自自連立を模索していたといわれる。たしかに自民党にとって事態は深刻であった。参議院過半数割れが続く一方、九九年の通常国会では日米防衛協力のためのガイドライン関連で、周辺事態安全確保法案、中央省庁再編関連法案など、成立させねばならない重要法案が目白押しだった。国会では数がなければ、どんな法案でも日の目を見ることはない。少しでも与党議席を増やしておくという意味で、自由党の協力は是が非でも必要であった。

自由党にとっても、自自連立のメリットは大きかった。新進党を解散して以来、創価学会の支援に期待できない自由党所属の国会議員は、学会に代わる組織がなければ、当選は厳しかった。連立になれば、閣僚や政務次官ポストを要求することもできる。

こうした状況のもとで自民、自由両党は連立に踏み切ったのだった。連立に際して、自由党は、消費税については税率・福祉目的税への限定など抜本見直し、所得税、住民税は一〇兆円をめどに大幅減税、中央省庁再編時の閣僚数は一四人などの政策要求を行った。両党は、自由党が提案する政策に関する協議の開始、九九年度予算編成での協力、衆参両議院の定数是正、選挙協力などで合意書を交わした。

もっとも、参議院では、ご一議席しかない自由党との連立だけでは過半数は確保できない。公明党への接近がこうしてはじまった。野党時代や、与党に復帰した村山内閣時代の、機関誌「自由新報」を使った反創価学会キャンペーンが嘘のようであった。党内でも反対の強かった地域振興券配布での歩み寄りや、公明党執行部が夢にでもみるといわれる中選挙区制復活への協議などを提示して、自民党公明党の協力とりっけに成功する。一方、民主党との連携をも視野に入れていたはずの公明党は、次第に自自公路線に傾斜していく。

実際、九九年通常国会で、小渕内閣は、日米防衛協力のためのガイドラインの国内関連法(周辺事態安全確保法案)や通信傍受法案などを、公明党の協力を得て可決成立にこぎつけた。しかし公明党への接近は、自由党との間に亀裂を生じる結果となった。自由党が自自連立に際しての合意事項である衆議院の定数削減を強く主張し、これに反対する公明党と鋭く対立したからである。

マトモなコミュニケーションが成り立つはずがない

口先でうまいことをいってなにもしないのと、いろいろするが厳しいことをいうのと、どちらがいいのかと、母親に聞いたことがある。敵もさるもの、こちらの意図を察して、このトシになると厳しい言葉は一切ききたくない、どうせしてもらえることは限られているのだから□先だけでも優しくしてほしい、と妹たちの肩を持った。

その一方で母親は、家内が、東京の暮らしに満足しているならそれを言葉に出して私に伝えたらどうか、といったのに対して、言葉なんか軽いものです、といい、満足はしても感謝はしない、という構えを崩さなかった。実際の行為よりリップ・サービスのほうがいいといったり、言葉なんか軽いものだといったり、支離滅裂だが、「話」はその場限りの座興だという感覚の母親にしてみれば、自分の発言が過去の言動に照らして整合性がないといわれても、嘘ばっかりいっているといわれても、問題ではないのだろう。

この調子では、マトモなコミュニケーションが成り立つはずがない。なにも母親に限らず、四人組に共通しているが、不穏当な言動を咎めると、そんなっもりでいったのではないとか、そう思ってしたのではないとかと、弁解するのが常だった。自分の言動に関して責任を持たないどころか、それが他人にどう受け取られるかを考える習慣さえ、どうやら持ち合わせていなかったらしいのである。

親たちの独善と鈍感は、使用人に囲まれて育った環境で生まれ、競争社会から脱落して狭い部屋で暮らした半世紀の聞に、固まっていったのだろう。それが、親に対する批判力に欠ける娘たちにも、伝わっていったのだと思われる。

呆けというと、ふつうは人間の精神的・知能的活動のうちの、認識装置や記憶装置の故障ないしは破壊、というふうに考えられている。そして老化に伴って生ずる人格破壊というと、ふつうはアルツハイマー病のように、運動機能の極端な低下も加わった、人間としての能力の全面的かつ大幅な崩壊が連想されることが多い。

しかしそれらは、極端な受け取り方なのではないか。老人特有の精神状態の歪みとしては、昔からガンコ爺、強欲婆と、本来二つの言葉が一つになって定着しているように、頑固と強欲が相場になっている。頑固の点では私も人後に落ちない自覚があるから、あまり他人のことはいえないが、老人の精神状態にはいろいろの様相がある。利害打算や駆け引きや見栄や自己弁護など、さまざまな動機から生じる「嘘」も、その典型である。

それらは、それぞれ別々の反応を周囲に及ぼしながら、波紋を広げていく。その結果、周囲の人間関係が根底から破壊されることもあるし、周囲にたいへんな労力や経済力の負担を強いることもある。これは介護の視点からも重大なポイントなのだが、精神とか心理とかという人間の内面に深くかかわるものだから、一見して他人にわかるわけはない。

近い将来起こるべき消費者自身の欲求の変化

人間は「時代精神」の中で生き、ごく少数の限られた人だけが「時代」の壁を超えられるという。二一世紀の消費者行動を考える際には、これまでの歴史的な社会・経済の動きを大雑把に鳥瞰しておくことは重要である。消費行動の変化は人間が中心であるために、その変化は、大きな歴史の流れの中で比較的安定的にとらえられるからである。

戦前の全体主義と民主主義の対立の時代が終り、戦後の冷戦構造をもたらした資本主義と共産主義の対立の時代はベルリンの壁の崩壊で一応の決着をつけた。今後は地域的な対立、民族間、宗教間の対立というような、各主体のアイデンテゴアイーを求めた対立の世界に移行しつつある。戦後の経済成長によって、日本国内においても「モノ」主体の価値観から「ヒト」、「質」、「国際化」という流れに移行し、これからは「国際基準」や「情報化」といった言葉がキー・ワードになってくる。

二一世紀の消費者行動を考える際には、このように世界史の流れと戦後の国内経済の流れの両方の流れを踏まえて考える必要がある。そして、私達は二一世紀の消費者行動を考える際の前提条件として、二一世紀の日本の消費者を取りまく世界的な政治・社会・経済的な環境が「価値観の多様化」と「国際基準」であるということを念頭におかなければならないだろう。

次に、近い将来起こるべき消費者自身の欲求の変化と、消費者を取りまく制約条件について考えてみよう。従来の消費者を取りまく制約条件としては、主として所得制約が大きなウェイトを持っていた。つまり、消費者が自分白身の無限の欲望を満足させるためには、多量の商品・サービスを消費することである。その際には所得だけが制約となって限られた量しか消費ができなかった。

二一世紀の消費行動を考える際の与件としては「高齢化」という条件を抜きにしては考えられず、所得制約以外の制約も顕在化する。例えば所得制約以外に住宅問題や高齢者介護に関する幾つかの数量・空間制約、ゴミ問題や大気汚染などの環境制約等である。これら新しい消費者を取りまく制約は戦後五〇年の経済成長の結果であり、必然的な帰結でもある。

物質的「豊かさ」の限界

現代は、科学技術の「意味が見えにくくなってい」て、「とくに先進諸国ではもうあまり科学技術の成果に期待しない」時代だとは、それでは、いったいどういうことなのだろうか。

おそらくそれは、まず第一に、学問がますます細分化・専門化して、ひとつの専門領域に関する研究業績に目を通しても、その分野ないしそれに隣接する分野の全体像はいっこうに見えてこなくなってしまっていることと、関係があるだろう。現代ではそういう論文の大量生産に励まないと、研究者相互間の「サバイバル競争」に負けてしまう。好むと好まざるとにかかわりなく、アカデミズムとはそういう場所なのである。

そのプロセスで科学は、たとえば臓器移植など、あるいは人間が立ち入ってはいけないかもしれない「神の領域」にまで、立ち入るようなケースが出始めている。これでは、科学技術の意味が見えにくいのも、無理はない。

そして第二に、日本を含む先進諸国にかぎった現象だとは言え、いまでは社会は、十分に豊かになってしまった。「科学技術」のうちとくに「技術」の側面は、これまで人類社会の貧乏を解決し、「豊かさ」をもたらすために大きな貢献をしてきた。

その努力が実って、先進諸国は著しく豊かになり、人びとは「豊かさ」にいささか飽きた反面、科学技術が、とくに地球環境の破壊などで、マイナスの側面を持つことがますます明らかとなり、人びとはそのマイナス面をますます鋭く意識するようになった。これでは科学技術の「成果への期待」は、しだいに弱化せざるをえない。

事態がもっとストレートかつ明快で、ある専門分野の勉強・研究がただちにその分野および関連分野の全体像のクリアーな理解と、社会の「豊かさ」の増進とに直結し得た幸せな段階には、優秀な若者は科学技術の研究に躊躇なく没頭することができた。しかし現代は、もはやそうした幸福な時代ではない。

地球経済の諸要因

この石油ドルは主として、長期的には、アメリカ、イギリスの政府証券、対工業国投資、国際機関・発展途上国融資、短期的にはユーロ市場や上交国預金の形で運用された。OPEC諸国は、第四次中東戦争イラン革命の政治的変動を利用して、生産国カルテルの力により、多国籍企業から産油会社の経官権を奪回し、悪化していた原油交易条件を改善したわけであるが、この一七年間の石油収人の動きをみると、OPEC方式のもつ問題点もまた明らかになってきた。OPECは七四年初頭に原油の公示価格を四倍引き上げた後、七九年から八二年にかけて基準価格を一七〇%引き上げることができたが、インフレ分をのぞくと八二年にようやく七四年の価格水準を回復したにすぎない。

つまり、第一次石油危機以後は、工業国の方がインフレをOPECはじめ発展途上国におしつける力がつよかったことになる。それゆえ、価格引上げによって生じた経常収支黒字も第一次引上げのさいは四年、第二次引上げのさいは三年続いただけで、ほとんどがゼロになった。八三年にはOPEC諸国の経常収支は大幅の赤字になっている。さらに八六年時における原油価格のバーレル当たり一〇ドル程度への下落により、どの国も大きな痛手を受け、財政支出の大幅縮小を余儀なくされた。八六年以降はOPEC総会による固定価格一八ドル制をほぼ保持することができ、さらに九〇年夏以降の中東危機で、原油価格が三〇ドル台にはね上った。

しかし、原油価格の動きは不安定であり、OPECの中でも高所得国は金利かせぎの資金をもつが、中所得国はむしろ、対外債務の増加に喘いでいる実情に変わりはない。工業国は製品価格引上げ能力をもっかばかりではない。世界不況の影響のほかに、省エネルギー、省石油の努力はいちだんとすすみ、八〇年代前半に資本主義欧界の石油消費量は、年率マイナスニ%の割で下がっている。また非OPEC諸国の石油生産量もふえ、OPECの価格統制力はかなりの程度低下しか。OPEC経済が基本的には一次産品の特性たる価格上下にふり回されていることが知られたが、OPEC諸国のもつ原油確認埋蔵量、生産余力は依然として大きく、世界景気の回復、中東での政情不安など条件と機会が許すごとに、数年間隔で原油価格引上げを試みる可能性はきわめて高い。OPECは依然として、世界経済における大きな不均衡要因である。

工業国インフレ、OPEC原油価格引上げのツケは、この一〇年、世界経済で立場の弱い非産油発展途上国にまわった。非産油途上国の経常収支赤字は、一九七〇年の八八億ドルから八〇年代初めに七〇〇−八〇〇億ドルの水準へとふえ、それ以降貿易は縮小均衡の形となり、公私の債務が累積して、元利の返済が大きな問題となることになった。この債務累積はいまの南北問題の主要な問題の一つとなっているので、南北問題の章で立ち入ってみることにしよう。ここでは、非産油途上国の国際収支赤字拡大が、変動相場制下でのもうひとつの大きな不均衡をなしていること、そこから途上国はSDR創出と開発援助のリンク、IMF改革(途上国の決定権参加)など、国際通貨・金融制度の改革要求を提起していることを指摘しておこう。

一九八七年の七月一日を国連は「世界人口五〇億の日」と名づけた。じっさい、このころ、世界の人口は五〇億人に達したと推計される。このころから世界人口は毎年一億人ずつふえ、二〇〇〇年には六三億人に達するとみられる。世界人口の動態はどのようなものだろうか。世界の人口はもともと一八世紀ごろには八−九億人であったと考えられる。それまでは、世界人口はほとんど横ばいで、人口が二倍となるのに1000年ほどの期間がかかっていた。七世紀ごろヨーロッパの海外膨張が起こると、アメリカ大陸南部、アフリカ大陸の人口は戦争、奴隷制などにより激減した。他方でヨーロッパ人は、海外貿易により資本の原始的蓄積を加速化させ、産業革命を行なった。ヨーロッパ、とりわけイギリスの人口が増加をはじめたのは、産業革命前後の所得水準上昇を契機としてである。一九世紀初頭に九〇〇万たったイギリスの人口は、一世紀後に二倍の一八〇〇万にふえた。