物質的「豊かさ」の限界

現代は、科学技術の「意味が見えにくくなってい」て、「とくに先進諸国ではもうあまり科学技術の成果に期待しない」時代だとは、それでは、いったいどういうことなのだろうか。

おそらくそれは、まず第一に、学問がますます細分化・専門化して、ひとつの専門領域に関する研究業績に目を通しても、その分野ないしそれに隣接する分野の全体像はいっこうに見えてこなくなってしまっていることと、関係があるだろう。現代ではそういう論文の大量生産に励まないと、研究者相互間の「サバイバル競争」に負けてしまう。好むと好まざるとにかかわりなく、アカデミズムとはそういう場所なのである。

そのプロセスで科学は、たとえば臓器移植など、あるいは人間が立ち入ってはいけないかもしれない「神の領域」にまで、立ち入るようなケースが出始めている。これでは、科学技術の意味が見えにくいのも、無理はない。

そして第二に、日本を含む先進諸国にかぎった現象だとは言え、いまでは社会は、十分に豊かになってしまった。「科学技術」のうちとくに「技術」の側面は、これまで人類社会の貧乏を解決し、「豊かさ」をもたらすために大きな貢献をしてきた。

その努力が実って、先進諸国は著しく豊かになり、人びとは「豊かさ」にいささか飽きた反面、科学技術が、とくに地球環境の破壊などで、マイナスの側面を持つことがますます明らかとなり、人びとはそのマイナス面をますます鋭く意識するようになった。これでは科学技術の「成果への期待」は、しだいに弱化せざるをえない。

事態がもっとストレートかつ明快で、ある専門分野の勉強・研究がただちにその分野および関連分野の全体像のクリアーな理解と、社会の「豊かさ」の増進とに直結し得た幸せな段階には、優秀な若者は科学技術の研究に躊躇なく没頭することができた。しかし現代は、もはやそうした幸福な時代ではない。