地球経済の諸要因

この石油ドルは主として、長期的には、アメリカ、イギリスの政府証券、対工業国投資、国際機関・発展途上国融資、短期的にはユーロ市場や上交国預金の形で運用された。OPEC諸国は、第四次中東戦争イラン革命の政治的変動を利用して、生産国カルテルの力により、多国籍企業から産油会社の経官権を奪回し、悪化していた原油交易条件を改善したわけであるが、この一七年間の石油収人の動きをみると、OPEC方式のもつ問題点もまた明らかになってきた。OPECは七四年初頭に原油の公示価格を四倍引き上げた後、七九年から八二年にかけて基準価格を一七〇%引き上げることができたが、インフレ分をのぞくと八二年にようやく七四年の価格水準を回復したにすぎない。

つまり、第一次石油危機以後は、工業国の方がインフレをOPECはじめ発展途上国におしつける力がつよかったことになる。それゆえ、価格引上げによって生じた経常収支黒字も第一次引上げのさいは四年、第二次引上げのさいは三年続いただけで、ほとんどがゼロになった。八三年にはOPEC諸国の経常収支は大幅の赤字になっている。さらに八六年時における原油価格のバーレル当たり一〇ドル程度への下落により、どの国も大きな痛手を受け、財政支出の大幅縮小を余儀なくされた。八六年以降はOPEC総会による固定価格一八ドル制をほぼ保持することができ、さらに九〇年夏以降の中東危機で、原油価格が三〇ドル台にはね上った。

しかし、原油価格の動きは不安定であり、OPECの中でも高所得国は金利かせぎの資金をもつが、中所得国はむしろ、対外債務の増加に喘いでいる実情に変わりはない。工業国は製品価格引上げ能力をもっかばかりではない。世界不況の影響のほかに、省エネルギー、省石油の努力はいちだんとすすみ、八〇年代前半に資本主義欧界の石油消費量は、年率マイナスニ%の割で下がっている。また非OPEC諸国の石油生産量もふえ、OPECの価格統制力はかなりの程度低下しか。OPEC経済が基本的には一次産品の特性たる価格上下にふり回されていることが知られたが、OPEC諸国のもつ原油確認埋蔵量、生産余力は依然として大きく、世界景気の回復、中東での政情不安など条件と機会が許すごとに、数年間隔で原油価格引上げを試みる可能性はきわめて高い。OPECは依然として、世界経済における大きな不均衡要因である。

工業国インフレ、OPEC原油価格引上げのツケは、この一〇年、世界経済で立場の弱い非産油発展途上国にまわった。非産油途上国の経常収支赤字は、一九七〇年の八八億ドルから八〇年代初めに七〇〇−八〇〇億ドルの水準へとふえ、それ以降貿易は縮小均衡の形となり、公私の債務が累積して、元利の返済が大きな問題となることになった。この債務累積はいまの南北問題の主要な問題の一つとなっているので、南北問題の章で立ち入ってみることにしよう。ここでは、非産油途上国の国際収支赤字拡大が、変動相場制下でのもうひとつの大きな不均衡をなしていること、そこから途上国はSDR創出と開発援助のリンク、IMF改革(途上国の決定権参加)など、国際通貨・金融制度の改革要求を提起していることを指摘しておこう。

一九八七年の七月一日を国連は「世界人口五〇億の日」と名づけた。じっさい、このころ、世界の人口は五〇億人に達したと推計される。このころから世界人口は毎年一億人ずつふえ、二〇〇〇年には六三億人に達するとみられる。世界人口の動態はどのようなものだろうか。世界の人口はもともと一八世紀ごろには八−九億人であったと考えられる。それまでは、世界人口はほとんど横ばいで、人口が二倍となるのに1000年ほどの期間がかかっていた。七世紀ごろヨーロッパの海外膨張が起こると、アメリカ大陸南部、アフリカ大陸の人口は戦争、奴隷制などにより激減した。他方でヨーロッパ人は、海外貿易により資本の原始的蓄積を加速化させ、産業革命を行なった。ヨーロッパ、とりわけイギリスの人口が増加をはじめたのは、産業革命前後の所得水準上昇を契機としてである。一九世紀初頭に九〇〇万たったイギリスの人口は、一世紀後に二倍の一八〇〇万にふえた。