長江中流の武漢での開発

中国軍の近代化は至上命令となった。軍事工業の近代化は必至となり、したがって民間工業の近代化は避けられなかった。これが中国の政治・経済・技術の現代化の起点であった。一九五三年に朝鮮戦争の休戦協定が実現した。しかし中国とアメリカとの戦争状態は正式には終わらなかった。

アメリカにとって、日本列島からフィリピンに至る弧状列島と朝鮮半島の南半は、対東アジア戦略上譲れぬ軍事的最前線となった。第七艦隊が台湾海峡にあって、中国大陸と台湾とを分断していた状態は変わらなかった。この中途半端な軍事情勢は、中国と日本の経済と技術に大きなインパクトを与えた。

朝鮮戦争がなかったら、中国は日本や欧米と早くから貿易関係を結び、技術や管理手法もまた導入したであろうが、それが向ソー辺倒とならざるを得なくなった。また一九五三年から、中国はソビエトと東欧との大規模な経済援助を受けて、第一次五ヶ年計画を開始したのである。

しかし、アメリカ軍が鴨緑江の対岸に迫った事実と、第七艦隊はなお中国沿岸に待機している状況とを考慮すると、重工業施設は沿岸から遠く離れた地域に立地することが安全であった。黒竜江省内蒙古の省境近くのフラルチと長江中流武漢に重機械工場を、映西省の西安に電力機械工場を、吉林省長春に自動車工場を建設するという具合であった。中国が重工業の沿岸立地を拡大し始めるのは、それから二五年後のことである。