マトモなコミュニケーションが成り立つはずがない

口先でうまいことをいってなにもしないのと、いろいろするが厳しいことをいうのと、どちらがいいのかと、母親に聞いたことがある。敵もさるもの、こちらの意図を察して、このトシになると厳しい言葉は一切ききたくない、どうせしてもらえることは限られているのだから□先だけでも優しくしてほしい、と妹たちの肩を持った。

その一方で母親は、家内が、東京の暮らしに満足しているならそれを言葉に出して私に伝えたらどうか、といったのに対して、言葉なんか軽いものです、といい、満足はしても感謝はしない、という構えを崩さなかった。実際の行為よりリップ・サービスのほうがいいといったり、言葉なんか軽いものだといったり、支離滅裂だが、「話」はその場限りの座興だという感覚の母親にしてみれば、自分の発言が過去の言動に照らして整合性がないといわれても、嘘ばっかりいっているといわれても、問題ではないのだろう。

この調子では、マトモなコミュニケーションが成り立つはずがない。なにも母親に限らず、四人組に共通しているが、不穏当な言動を咎めると、そんなっもりでいったのではないとか、そう思ってしたのではないとかと、弁解するのが常だった。自分の言動に関して責任を持たないどころか、それが他人にどう受け取られるかを考える習慣さえ、どうやら持ち合わせていなかったらしいのである。

親たちの独善と鈍感は、使用人に囲まれて育った環境で生まれ、競争社会から脱落して狭い部屋で暮らした半世紀の聞に、固まっていったのだろう。それが、親に対する批判力に欠ける娘たちにも、伝わっていったのだと思われる。

呆けというと、ふつうは人間の精神的・知能的活動のうちの、認識装置や記憶装置の故障ないしは破壊、というふうに考えられている。そして老化に伴って生ずる人格破壊というと、ふつうはアルツハイマー病のように、運動機能の極端な低下も加わった、人間としての能力の全面的かつ大幅な崩壊が連想されることが多い。

しかしそれらは、極端な受け取り方なのではないか。老人特有の精神状態の歪みとしては、昔からガンコ爺、強欲婆と、本来二つの言葉が一つになって定着しているように、頑固と強欲が相場になっている。頑固の点では私も人後に落ちない自覚があるから、あまり他人のことはいえないが、老人の精神状態にはいろいろの様相がある。利害打算や駆け引きや見栄や自己弁護など、さまざまな動機から生じる「嘘」も、その典型である。

それらは、それぞれ別々の反応を周囲に及ぼしながら、波紋を広げていく。その結果、周囲の人間関係が根底から破壊されることもあるし、周囲にたいへんな労力や経済力の負担を強いることもある。これは介護の視点からも重大なポイントなのだが、精神とか心理とかという人間の内面に深くかかわるものだから、一見して他人にわかるわけはない。