万葉に関する造詣

矢内原先生はこの翻訳を引受けて下さって半年足らずのうちに新書二巻分にあたるものを訳了されました。この努力がなかったら、岩波新書の先頭を『奉天三十年』で記念することもできなかったわけですが、それと同じくらい私たちが感謝したのは、斎藤茂吉先生が今日でも名著として広く読まれている『万葉秀歌』上・下二巻を、一夏で書きあげて渡されたことでした。先生はその夏箱根の強羅にこもってこの仕事に専念され、ほとんど一気に、渋滞なく書きあげてしまわれたのです。恐らく読む人が読んだなら、この成立の事情とあの簡潔で狂いのない評釈との間に、或る関連をみつけるかも知れないと思います。

万葉に関する先生の多年の菰蓄と造詣と、歌人として鍛えあげたすばらしい鑑識力とが、この著作の底に溢れるような水量でたたえられていて、それが、時間も短く枚数も少いために、かえって凝集してこの著作にこんこんと湧き出しているような気がします。『万葉秀歌』と共に最初に出た二十巻のうちで、いまでは姿を消していますが、特に挙げておかねばならないのは、津田左右吉先生の『支那思想と日本』ではないかと思います。

というのは、この本を岩波新書に書き下すまでは、津田先生の著作活動は全く学界の中に限られ、先生の研究も思想も社会的な論議の外にあったのですが、いわゆる東洋文化などというものが学問的に見れば存在しないというこの本の主張は、岩波新書に出たせいもあって、当時、日本の大陸侵出を東洋文化の再建とか東亜共栄圏とかという美名で飾っていた右翼評論家たちを刺戟し、やがて先生が東大に招かれて講義をされる前後から、彼らは、先生の過去の国史研究にまでさかのぼって先生の思想を論難攻撃するようになり、終に彼らの告発によって先生は皇室の尊厳を冒涜する罪に問われるに至った、といういきさつがあるからです。