平成金融恐慌

長銀問題とはシンクロ(同時並行)する形で、円安の急進を中心とした「日本売り」が加速していた。九八年六月十二日の東京市場では株、債券、円のトリプル安に発展。円相場は七年ぶりに一ドル=百四十円半ばまで下落し、株価は日経平均が一万五〇〇〇円台を割り込んだ。さらに、急激な円安がアジア通貨不安を再燃させることが喧伝され、欧米の株価も日本につられて急落。十七日には日米通貨当局が円買いドル売りの協調介入に乗り出すまでになった。

市場関係者の間で「日本発の世界金融恐慌が起きる」とのシナリオが語られるなか、サマーズ米財務副長官(当時)が急進来日。蔵相や日銀総裁らと会談し、このなかでサマーズ副長官は不良債権の抜本的な処理と、問題銀行の大胆な整理を行なう金融安定化策を講じるよう強く要求する。

これを受けて、加藤紘一自民党幹事長は大手行の破綻処理を視野に、健全な借り手を保護するための仕組みであるブリッジバンク(つなぎ銀行)構想の具体化を急ぐ考えを表明する。この時点で長銀はサマーズのいう整理すべき銀行で、ブリッジパングの第一号と見なされ、扱われていくようになる。

体制がまだ整わないなか、こんな金融危機の嵐にいきなり見舞われた金融監督庁は、スタンスが定まらず、とにかく長銀の突然の資金繰り破綻を回避に向け、長銀延命の時間稼ぎを行なうことを強いられる。ブリッジバンクなどの制度的枠組みが整わないまま、長銀を破綻させれば、系列ノンバンクや大口融資先が連鎖破綻し、長銀の信用でそれらの会社に多額の融資をしている信託銀行なども巨額の不良債権の発生で深刻な経営危機に見舞われることが予想された。

そうなれば「もう誰も手がつけられない」(監督庁幹部)。同時期には、九七年十一月の山一証券の破綻と安田信託銀行の経営危機をきっかけとする都銀大手の富士銀行の経営不安説も広がっていた。長銀とは比べ物にはならない取引先企業、預金者を抱える都銀大手が破綻することにでもなれば、本当に「平成金融恐慌」が起きることは誰の目にも明らかだった。