コンベア廃止

G・フリードマン流にいえば「仕事それ自体でないものへの重点の移行は疎外の一局面であるとみられるべきである」(G・フリードマン『細分化された労働』小関藤一郎訳、小島書店)ということにもなるだろうし、もうすこし根底的につきつめれば、「労賃は疎外された労働の直接的な帰結であり、疎外された労働は私有財産の直接的な原因である。だから一方が消滅するなら、他方も消滅せねばならない」(マルクス『経済学=哲学稿』三浦和男訳、青木文庫版)ということになってしまうのであろう。

七三年は、日本において「コンベア労働に対する反省」が経営、経済雑誌において盛んになった年だった。一方ではアメリカーローズタウンのGMベガエ場での。反乱へもう一方ではスウェーデンボルボエ場のレポート、そしてもうひとつECの社会労働委員会のコンベアシステム廃止の提案、これらによってコンベアの悪はクローズアップされ、なにか近い将来、廃止されるような感じを与えている。が、いまの条件下において、コンベアを廃止しなければいけないと考えている経営者がどこににいるだろうか。

「コンベア廃止」はかなりマスコミ的なキャッチフレーズであり、ここで問題にされているのは、それほど新しいことではない「職務の拡大」や「職務の充実」のことであろう。これらは欠勤率を下げ、定着率を上げるための狙いをもちなから、それぞれ生産を増大させることに大きく寄与している(長町三生「職務充実の設計」=「近代経営」ダイヤモンド社、七三年一一月号)。そのような意味あいにおいて積極的に導入されようとしているのであり、テーラー以来の「科学的管理法」の行詰りを修正しようとしているのにすぎない。

自動車メーカーの今日における超過利潤は、下請まで同調化させたコンベアタクトによってもたらされているものであり、退職するものが続出しても、季節工を投入した人海戦術でなんとか切り抜けているのが実情なのだ。スウェーデンのように、自動車産業の賃金は他産業にくらべてさして高くなく、外国人労働力に依存しながらの高学歴社会であることや、ボルボ、サーブにしても、大量生産工場でないからこそ、七四年春稼働をはしめたカルマル工場がコンベアの代わりに、動くプラットホーム(電気自動車)を使用できるというものである。

日本自動車工業会では海外紙の記事を集めているが、この「自動車海外情報」(自動車工業会、七三年九月三〇日号)によると、狙いはグループ制による生産体制の導入、作業システムの若干の変更などよりも、むしろ労働者に対して参加意識をどうかきたてるかにあるのが判る。たとえば、サーブの実験については、こう紹介されている。

「そしてすぐに最初の実験として、労働者たちにその一日の労働時間の枠内で、それまでよりも大きな自主性を与えることが決定された。その目的は作業方法、使用工具、生産設備、職務の拡大、労務環境などに関係あるテーマについての、いっそう活発な話合いを可能にするとともに、技術者、職長、製造担当技師だちとの協力関係をさらに強化するというものであった」「すでに五〇以上の研究グループが結成され、さらに、新たなグループが一週間に一つの割合で生まれている。そしてこのグループの誕生は自発的なもので、経営者側からの圧力はまったくないにもかかわらず、経営者たちはこのグループ活動が、工場の仝単位に拡大されることを期待し希望している」