お得意さんというアダ名

ぽくがちんちくりんだからかな、貧乏くさく、金などないように見えたのかなあ、と私か言うと、コミちゃんは、それはとてもいいことなのだ、と言った。それは私が、女欲しがりの観光日本人に見えなかったからだ、とコミちゃんは言った。コミちゃんの言葉をそのまま受けとるわけにはいかないが、私を慰めるためにそう言ったとも思えない。まあ、そういうことはどうでもいいことで、そうだよ、おまえはちんちくりんで貧乏くさいから声をかけられなかったんだよ、と言われても、別にかまわないけれど。

そんなことをコミちゃんに言ったことはないが、コミちゃんの小説や随筆を、私は愛読していた。コミちゃんは私より五つ若いが、四修で旧制高校に入り、私は二浪だから、旧制高校の学年は二年しか違わない。軍隊には、コミちゃんは昭和十九年に徴集され、私は昭和十七年の召集だから、入隊も二年しか違わない。軍隊の階級は、私は万年一等兵で、コミちゃんは万年二等兵だったというから、これも似たようなものである。それにしても、万年二等兵というのがあったとは知らなかった。私は入隊して二等兵であったとき、兵卒は、事故を起こさない限り、三ヵ月たつと、二等兵はみんな一等兵になり、それから先が差がつき、成績優秀の者は数力月で上等兵になり、劣等の者は、ずっと一等兵から昇進しないのだと聞かされ、そうだと思っていた。

ところが現にコミちゃんのような人もいるのだから、三ヵ月たつと、誰もが一等兵になるというわけでもないのだ。コミちゃんは、十九年の十二月に山口の聯隊に入隊して、入隊五日後に支那大陸に送られた。釜山に渡り、朝鮮半島を縦断して、満洲を通って北支に入り、南京のあたりまで南下した。三ヵ月どころか、終戦後も二等兵たったようだ。

軍隊では病気ばかりしていたようだ。マラリアアメーバ赤痢、パラチフス天然痘コレラ。一年半ぐらいの間に、そんな病気に次から次にかかり、よくぞ命永らえて帰国できたものである。私も、軍隊の医務室で、お得意さんというアダ名をつけられたくらい、病気になった。マラリアは無論のこと、私が連行されたのは南方で、風土病のテング熱にもかかった。潰瘍もやった。しかし、アメーバ赤痢、パラチフス天然痘コレラ、には罹らなかった。それでも、マラリアと普通の下痢を併発するだけでも、私たちは栄養失調になり、コロコロと死んだのだ。コミちゃんはそれどころではない、チフスコレラまで患い、骨と皮だけになりながら、しかし、生還した。