生きることの楽しみ

このようなヨーロッパ人を惹きつける写真が生まれてくる秘密は、「私はシャッターを押す時はいつも無になろうと思っている。最も大切なものに対してどれだけ無になれるか。その時、被写体も無になる」というところにあるようだ。ヨーロッパ人が写真を撮るとするなら、写真家の個性がまず問われるであろう。個人として確立した人間が、それを頼りとして風景を切り取り、写真にして見せる。これに対して、荒木は「無になろうと思っている」のだから、随分と異なる態度である。これを没個性と言っていいだろうか。彼の作品を見ると、誰しも個性的と感じるに違いない。これをどう考えるといいだろう。日本人は個性に乏しいと言われる。確かにこれはある程度賛成せざるを得ないと思う。すると追い打ちをかけてきて、「日本人は創造的ではない」と言われることがある。皆が同じことをして、同じように考えている。

ここまで言われると、こちらも反論したくなって、日本にも創造的、個性的な芸術家は多くいる、と言う。しかし、そう言いながら、それは欧米人の個性的と少し異なるな、と感じたりする。欧米人が個性的と言うとき、近代自我が確立されていることを前提として考えている。創造性、個性と言っても、そのような自我を通して表現されるものについて言っている。したがって、欧米近代の自我が確立していないときは、すぐに個性や創造性を否定したくなるのだろう。しかし、近代自我は自我の在り様のなかのひとつであって、それが正しいわけでも立派なわけでもない。荒木経惟はシャッターを押すとき、そんな自我など消してしまおうとする。それでは、荒木という個人はどこへ行ったのか、ということになるが、言うなれば、荒木という人間は、一人の人間であると共に被写体のすべてともなってしまって、写真のすべてが「私」なんだと言いたいくらいの心境であるだろう。有難いことに、欧米人でもそれのよさがわかるようになってきたのだ。

彼らは、それらを「異様なもの」と感じつつ、その魅力を認めざるを得ないのである。写真を撮るためには、シャッターを押さねばならない。ファインダーも覗かねばならない。そんな意味において、「自我」は十分に的確に活動しなくてはならない。その一方で、自我はほとんど無になってしまう。それは没個人かもしれぬが、極めて個性的なのである。この点を欧米人によく理解してもらうように努めねばならないし、日本人の創造性と呼べるものがあるとするならば、それが現代の世界においてもつ意味を明確にすることもできるであろう。創造における前述のようなことを、異なる表現で言うと、横尾忠則が『横尾忠則自伝』(文葡春秋、一九九五年)のなかに述べている「「胸騒ぎ」の重視」ということになるだろう。

胸騒ぎが生じると居ても立ってもおれない状態になる。ぼくの内部と外部がひとつになったような感覚だ。そんな時ぼくは「胸騒ぎ」を分析したりしない。なるべく即座に受け入れることにしている」と横尾は言っている。この「ぼくの内部と外部がひとつになったような感覚」は、荒木の場合の「自分も無、被写体も無」という表現と軌を一にしている。こんなことを聞いて、妙に禅くさくなって欲しくはない。このような体験が作品となるためには、強力な自我−近代自我ではないにしろIや、西洋の技術を身につけていることなどが前提となっていることを忘れてはならない。その上でなお、このようなことが生じるときに創作の秘密がある。ここで、横尾が「胸騒ぎ」という身体言語を用いているのも注目に値する。現代芸術における身体の要因は実に重要なものである、この点については、『現代日本文化論』第11巻の横尾忠則のエッセイを参考にしていただくとして、ここでは割愛しておく。

地球上の多くの生物のなかで、自分が「死ぬべき存在」であることを明確に意識しているのは、人間だけではなかろうか。生きている間、死という終末の来ることを考えていなくてはならない。しかし、そこはうまくできていて、すべての人がいつもいつも「死」のことを考えて生きているわけでもない。むしろ、死などは忘れて毎日を生きている人の方が多いのではなかろうか。現代は確かに生きることの快楽に満ちていると言っても日本のことであって、地球上では飢餓に苦しんでいる人たちも多くいるのだが。海外旅行に行ける、おいしいものがたくさん食べられる、他の文化から取り入れたファッションを楽しみつつ衣服を身につける、車を乗りまわして好きなところに行ける、というような言い方をする限り、今から五十年前の日本では想像することさえできなかったような「生きることの楽しみ」を手に入れている。