台湾初の総統直接選挙

共産党が国民党との和解や、国民党の政権回復に期待をかけても所詮、その願望は台湾社会で主流の意識とはかけ離れており、期待を裏切られる可能性が強い。総統選挙を前に、こうした現実が明らかになるにつれ、胡錦濤の「現状維持」路線は窮地に追い込まれ、対台湾強硬論が強まる可能性が浮上してきた。それでなくても中国では○七年秋の党十七回大会に向けて、一敗地にまみれた江沢民派が巻き返しの機会を狙っていた。江は二〇〇五年三月、最後まで手中にしていた国家軍事委員会主席のポストを胡錦濤に明け渡し、一切の公職を去るに当たって。十七世紀オランダ人に支配された台湾に軍事侵攻し武力で取り戻した鄭成功の塑像を軍事委員会のメンバー全員に贈った。武をもっても台湾を回収せよというのが、その心であろう。

胡との権力闘争で劣勢が明らかになり、側近が櫛の歯を欠くように一人また一人と去るなかで、江は「目の黒いうちに台湾の復帰を見たい」と言うのが口癖と聞く。故郵小平は生前、「一中国公民として祖国に復帰した香港を見たい」というのが口癖だった。結果的に郵は一九九七年二月に亡くなり、七月一日の香港返還を生きて見ることはできなかった。八十歳になる江沢民が「目の黒いうちに」台湾統一を果たすために中国は、どれほど大きな犠牲を払わなくてはならないのか。胡錦濤がこうした夢想を真に受けるとは思えない。しかし、江の愚かな我執さえも台湾統一を大義名分に掲げる限り、愛国的だと讃えられるのが中国の現実でもある。江沢民は『江沢民文選』第二巻で、台湾と歴史問題を結び付ける理由を述べている。日本はかつて台湾を侵略し五十年にわたって占領した。台湾を自らの「浮沈航空母艦」と見なしたが、これは日本人がまず提唱し、米国の一部の人々がその衣鉢を受け継いだものだ。日本に対して台湾問題を深く徹底して語り、歴史問題を終始強調し永久に言い続けなくてはならない。

これは一九九八年八月の駐外外交使節会議における演説の一部である。この三ヵ月後の日本公式訪問で、江は自らの言葉どおり台湾と歴史問題を結びつけ、徹底的に日本の責任を追及した。それは、その後の靖国問題に至るまで中国の対日外交の指針となった。しかし、その結果として日本の対中感情は極端に悪化し、台湾の李登輝前総統ら台湾要人が首相の靖国参拝や日本の台湾植民地支配を評価する発言をくり返したこともあって、保守陣営をはじめ多くの日本人が台湾に親近感を抱いた。江の指示した歴史と台湾を結びつけ。日本に圧力をかける戦略は失敗したのである。実は中国の外交関係者の間では、歴史と台湾問題を結びつける対日戦略は日本を台湾に追いやることになり、決して得策ではなく、両者を分離すべきだという主張が強かった。そこで胡政権は、安倍内閣の誕生というチャンスを捉えて。日本に対し歴史問題を後景化させる戦略的転換に踏み切った。それは歴史問題よりも台湾統一を優先する戦略として、次第に党内の合意を得つつある。

したがって、党内の強硬派であっても、再び「反日」運動を仕掛け、対日関係を大きく後退させて胡政権を牽制するのは容易ではない。すでに中国の戦略的重点が歴史問題から台湾問題に移っているからだ。中国は台湾を孤立させるため、米国のみならず日本との戦略的な関係打開を果たし協調関係を築くことを目指している。それはブッシュや安倍の対中接近や、中国の要求に応じた台湾独立に反対、または支持しないという表明、さらにもっとも肝心な2プラス2の共通戦略目標で。台湾に言及しないという形で実を結びつつある。それゆえにこそ、台湾は危機感を強め、2プラス2の直後に史上最大規模の軍事演習に踏み切り。北京五輪に向けた台湾を通過する聖火リレーのルート問題でさえ北京に妥協せず、中国との対決姿勢を強めている。また世界保健機関(WHO)や国連にも台湾の名で加盟申請を出し、国際的注目を集めようと努力しているが、必ずしも日米の支援を得るに至っていない。

かつて一九九六年。台湾初の総統直接選挙を前に。中国は度重なる軍事演習で威嚇した。三月の総統選の最中には台湾を飛び越すミサイルまで発射して軍事能力を見せつけた。背景には「米国はロサンゼルスを攻撃されるリスクを冒してまで台湾を防衛することはない」(中国軍幹部)という過信があった。これに対し、当時の米政府高官は「そうした思いこみは全く誤り」と言い渡して。総統選挙では台湾海峡に空母二隻を出動させ、断固として台湾を防衛する意思を示した。これによって、双方は互いの台湾問題にかける「本気さ」を思い知り、天安門事件(一九八九年)以来、冷却化していた米中関係は戦略的協調関係の樹立に向け改善に向かうのである。「台湾統一の歴史的好機」に中国が軍事的冒険に乗り出した場合、米国は軍事的手段も駆使しながら戦略的な牽制ができるだろうか。あるいは当時に比べ飛躍的に向上した潜水艦をはじめとした中国の外洋展開能力に対し、米国は軍事的冒険を断念させる軍事力を見せつけることができるだろうか。疑問がないとはいえない。