沖縄の料理をひとことであらす

また、丼からどどんと盛りあがる物凄さ、切断面も露わな豚の足が山盛りではないですか。実際に手引を前にしているとなにも感じないけれど、こうして文字を連ねていると、なんだか猟奇的な食い物の絵が脳裏に乏んでしまう。けれどあなたも大城食堂の手引を目の前にしたら、ちいさく溜息をついてしまうのではないだろうか。汁に脂が浮いていないのだ。これだけで、どれくらい手間暇かけて仕事をしているかがわかってしまう。比較するのも失礼だが、夕張豚足はギトギトのトロトロ、凄まじいお姿であった。なによりも立ち昇るその臭いにノックアウトされてしまったものだ。

沖縄の料理をひとことであらわせば、洗練ということになる。豚の足のような一見粗野に感じられる食べ物ほど、卑と聖が逆転したかの様相をみせる。薄味である。けれど昆布と鰹できっちり出汁がとってある。千引だけ口にすると、これで飯のおかずになるのかと心配になるのだが、実際に御飯と手引をいっしょに口に拠りこめば、塩味だけで食わされているような料理の芸のなさに気付かされ、むふふなどと無意味な笑みを乏べてとろとろの豚の足の皮を鸚るように口にして、控丸めな赤身を穿りだしていたぶって、ゼラチン質というのだろうか、親愛なる粘りけをもつ不可思議なものに吸いついて、最後の最後は手まで動員して骨にむしやぶりつく。小皿に骨を吐きだして、顎を突きだして大きな吐息をつく。

無臭ではないが、悪臭はない。本来は糞をこねまわしていた足である。手抜き調理を受けいれるような柔な代物ではない。けれど大城食堂のテイストは高級なほうの京料理に近い。住んだことのない人にはなかなか理解されないのだが、京都の料理は、じつはけっこう塩辛い。庶民の食うものは土地を問わず、大概が塩辛くできているものだ。それなのに沖縄の料理は基本的に薄味である。塩気でなく、出汁で食うという貴族趣味がゆきわたっている。塩気なんて海水でたくさんだというのかもしれないが、実際のところはずばぬけて味覚に鋭敏な県民なのではないか。ともあれ蓬の茎を囃るころには、旨さと満腹で、しかもおばあちゃんとおじいちゃんの顔が素晴らしいので、すっかり肩から力が抜けている自分を発見する。実感として食が幸福をもたらすことは否めないが、我々は往々にしてその料理自体よりもパッケージなどにだまされている。大城食堂のすべてのメニューが最高だとは言わないが、私は大城食堂の手引の洗練がわからない人とは友人になりたくない。

もう一軒だけ旨い店を紹介して、豚足を終えよう。場所は那覇国際通りを安里三叉路に突き当たったら左へ、崇元寺をめざす。ゆんたく屋という一軒家のおでん屋がある(以前、このおでん屋のことは他誌のエッセイに詳しく書いた。ゆえにさらりと流すことにする)。この店は前出、集英社の江口君がタクシーの車中より見つけだした。身分証明はできないけれど、鼻はきくのだな、江口は。沖縄ではおでんというとどこでも豚足を煮込むらしい。おでん自体は本土復帰運動とジンクするように食べられるようになったという。食も本土並みにというところか。けれど、おでんに豚足が入ってしまうわけだ。ゆんたく屋も京風と看板にあるけれど、メニューのいちばん最初に足てびちと大書されているのだから嬉しくなる。

ゆんたく屋の足てびちはごアビチ未体験の方にこそおすすめだ。とことん煮込まれていてほは洗練とは全く無縁で、店の前の狭い駐車スペースにむりやりレンタカーをねじ込んで、赤茶けた煉瓦色をしたリノリウム張りの床(私だけかもしれないが、この色彩が突出してなかなかに強烈な印象である)が目立つ店内にはいり、券売機で食券を買って、座敷にあがって片膝たてて商売繁盛の額を見あげてぼんやり牛汁を待つ。沖縄の食堂であるから、汁を頼めば御飯もついてくる。あなたがよほどの大食漢でないかぎり、券売機の表示を雑に見て、たとえば牛汁セットを注文してしまったりすることのないよう御忠告申し上げる。以下は集英社から出版されている私の沖縄短篇小説集〈虹列車・雛列車〉からの引用だ。