一気にイラク軍が勢力を盛り返す

不幸なことに、一六世紀には、クルディスターンは、オスマントルコ帝国とイうンのサファービー朝との戦場となってしまった。長期にわたって両国から脅かされたあげく、一六一二九年には、両朝はタルト人を無視して境界を設け、クルディスターンを分断してしまったのだ。

以来、居住地域を大国の勝手な都合で分断されてしまった彼らに、民族自決、独立の気運が高まった。そして、彼らのこの思いが、他国に利用されるという悲劇はこのときにはじまった。最初の事件は第二次世界人戦の国際関係の混乱期に起こった。イラン侵攻をはかるソ連がタルト人を支援し、彼らの独立の機運玉局め、軍の強化をはかったのだ。一九四六年一月には、クルディスターン共和国の建国を宣言するにいたったが、半年もせずにソ連が撤退し、同じ年の末、あっけなく崩壊してしまった。

一九八〇年九月にはじまったイランーイラク戦争でも、同じような事態が起こる。イランはイラク北部のタルト人に、イラクはイラン北部のタルト人に働きかけ、たがいに反政府運動を活発にして、戦力の分散をはかった。一九八八年には、イランがイラク北部(クルディスターン地方)に侵攻し、タルト人反政府勢力と合流したことから、イラク軍は自国でありながら化学兵器を使用し、イラン軍を撃退するとともに、一般住民を含めた数千人といわれるタルト人を虐殺してしまったのだ。

この事件を契機に、一気にイラク軍が勢力を盛り返し、イラン軍が国連の提案した停戦決議を受け入れるにいたったことは、第7章で触れることにする。イランーイラク戦争によって、百数十万人ともいわれるタルト人が難民と化し、イランやトルコに分散した。不幸な運命のもとで、民族としての独立を求める動きは活発となり、イラン、イラクでも戦闘はやかことがない。また、単一民族国家を理想とするトルコでは、タルト人の存在そのものを否定し、彼らを「山岳トルコ人」とよんでいるのが現状である。タルト人による武装ゲリラ活動は活発になっているが、「クルディスターン」建国は、まったく先が見えない。