性来の世話好きで働き好き

退院して、訪問看護を受けながら共働きしているカップルもある。デイケアヘ通所して陶芸にいそしんでいるひともいるし、病いの軽くなった患者たちは、グループホームで共同で暮らしている。病院が借りあげた一戸建ての家が七戸ほどあって、そこに四〇人が分散して暮らす。朝夕の食事とケアをする世話人がついている。看護婦も定期的に訪れて、病状を観察し服薬を確認して、担当医に報告する。社会復帰一歩手前のトレーニングのグループホームである。「家族の愛情もとぎれてしまって、心を病んだ患者たちの、いちばんの問題は、愛情のないところで生きるってことでしょうか。状態が悪くなってくると、何日もふつうの生活ができなくなってしまう。おフロもダメ、着がえもできなくなる。そんな患者をひと晩中抱きしめていっしょに寝たこともあります」

「どうして、そんなに私にやさしくしてくれるの?って患者が聞くんです。つらかったらつらいって言ってね。あなたの味方、あなたのお母さんになりたいんだからね。甘えていいよ、守ってあげるよ、と言って寝かせつけた翌日、どうしてそんなにやさしくしてくれるの?って聞く。つらいひとを守るのが看護婦。つらいひとを助けるのが私の仕事なのよ
って答えたんですけどね」精神科の看護婦に転進した理由をたずねると、彼女はあっさりとこういった。「ケアの基本は何科でも同じと思ってます。目ざすのは、その現場で、生き甲斐を見つけたい、生き甲斐を感じられるかどうかということなのです」Cさんが、地元の准看護学校に入ったのは、三十歳になってから。晩学である。

なりゆきがなりゆきを生んで、そうなった。高校(Cさんにいわせると底辺校のひとつだったそうだ)を出ると、地元の自動車メーカーに就職した。生産ラインについて、塗装のキズを見つける仕事、つまり検査工をしていた。ところが、塗装の薬品のせいか、露出している手の皮膚に湿疹ができ、やがてボロボロに脱落しはじめた。皮膚科に通って治療するが、さっぱり効果はあらわれない。体調も悪くなり、とうとう二年で退職した。しかし遊んでいるわけにはゆかない。近所のガソリンスタンドでアルバイトをした。性来の世話好きで働き好き。従業員の洗濯ものも自分から引き受けて、いつも白いものは白くピンピンにしてやっていた。

その清潔派ぶりをいたく気に入ったのが店主。結婚してほしいとなった。女の子がふたり生まれた。Cさんは、専業主婦になった。「長女が五つになったとき、近くに病院が新設されたんです。そこで働いてほしいと頼まれて……」当時、Cさんに看護婦の資格があったわけではない。病院側では、無資格の助手として勤めてもらいたかったのだろう。「私も何も知らなくって、病院に勤めたら看護婦なんだと思ってました。資格社会であることすら知らなかったんです」もうひとつ、問題があった。夫が頑強に反対したのだ。

「患者の排泄物をさわった手で、メシ炊きをするのか。オレは食わん。こうなんです。看護婦くらい嫌いな職業はないっていうんです」やたら潔癖症の夫だった。だから清潔好きのCさんと結婚したのに、その妻が、看護婦になるとは……夫は動転してしまった。「その夫を説得したのが姑でした。。病院があんなに困って言ってきたんだから、ね、人助
けのつもりで、行かせてやんなさい姑の説得がきいて、勤めはじめたんです」行ってみておどろいた。婦長は威張るのが商売らしく、新米のCさんたちをアゴで使う。つまり婦長は医師の世話をもっぱらとし、患者の世話はCさんたち看護助手に押しつける。使った注射器は放ってある。始末するのは資格のない看護助手たち。シモの世話もそうだ。